新澤 洋保

クレマチス「花炎」を世に残した新澤は、私(記・廣田)の会社の先輩です。

1943年、新潟県柏崎市生まれ。群馬大学時代にはラグビー部に所属し、小柄ながらも根性で活躍しました。

塗料メーカーに就職後は、ほぼ一貫して自動車向け塗料の開発および用途展開の業務に携わり、当初は技術的な研究開発業務を担当しました。その後、インドネシアにおいて長期にわたり現地法人の支援業務を行い、帰国後は名古屋地区でトヨタ自動車を中心とした自動車関連を担当、さらに東京地区では日産自動車や富士重工を担当しました。多くの人とのつながりを築き、事業の拡大に大きく貢献されました。

50歳代後半には、私を含め外資系メーカーとの合弁会社に出向し、彼は役員を経て社長に就任、会社業務の発展に尽力しました。 

彼のクレマチスとの関わりは、海外から戻り、名古屋事業所担当として、私のいる知立の研究所に勤務するようになった時からです。

当時私は、まだ品種を集めるばかりで、実生をやりたいと思いながらも出張が多く、なかなか踏ん切りがつかずにいました。そんな中、師匠・早川様の言葉「やらないと始まらない」をきっかけに、細々と始めかけたところでした。

その私のクレマチスへの熱の入れ方に興味を持ったのが彼であり、その後、実生を本格的にやろうと決め、火が付いたようでした。 

スタートは研究所の空き地で、ポットへの種まきからでした。

雨に当たらない場所で、ろくに水も与えない放任状態でも、きちんとたくさん芽吹き、気持ちが高揚しました。

さらに置き場所確保のため、会社近くの農地30坪を借り、二人でハウスを建てたのが本格化の始まりでした。

ハウスで苗を育て始めると、次は鉢の置き場の問題が生じました。

水やりの問題もあり、地植えをすることを決断。今度は道路計画で遊休地となっている農地、20m×50m、約300坪ほどの広さを借り、地植えを始めました。時は1993年頃でした。

そこに4棟を作り、3棟は私、1棟は新澤の担当としてスタートしましたが、ほどなく彼の東京転勤の辞令があり、その後の管理は私が引き継ぎました。 

広大な場所の水やりは大変でしたが、翌年からこの植え込みによる成果が早速現れてきました。

私の分は「紅華」や「大流」です。「大流」は借りたこの地所の地名です。

彼の担当棟からは、赤い変わった八重花を発見しました。肥料も効いていない500円玉ほどのいじけた花で、葉にも不思議な着色がありましたが、挿し木穂を採って観察したところ、翌年にはまともな花を咲かせました。

その花を、いつもお世話になっていたナーセリーの早川様に届けたところ、「面白そうだ」とのことで、すぐに増殖され、市場に出されました。 

当初、私はその容姿から「火炎」としていましたが、「あなたの種まき、植え込みから生まれたのだから、新澤さんの名前で世に出しましょう」と彼に伝えました。

彼は名前を少し変えたいと言い、選ばれたのが「花炎」でした。

その親については古い出来事ですが、私の記憶では、鳥取のマキタ園芸の「NO15」だったと思います。

早川様の素早い対応により、あっという間に人気の品種となり、国内で広く流通しました。彼もとても喜んでくれたことを思い出します。

「花炎」の誕生は1995年、流通は1998年頃ですが、2007年には英国の clematis on the web に掲載されていました。情報の発信元は不明ですが、写真は欧州の方によるものであることから、当時すでにヨーロッパでも流通が始まっていたのでしょう。 

 私がこの記事を書くに至ったのは、先日1月16日に、突然彼の他界の知らせを奥様から受けたからです。

彼が残した作品は「花炎」一つですが、私の実生栽培における大きなきっかけを作ってくださいました。

また、東海クレマチスの会の発足(当時は彼を含め4人)にも関わり、さらに「花炎」を通じた彼と私、そして早川様とのつながりの足跡を残したかったからでもあります。 

記.2026.01.20

廣田哲也


(写真)花炎